熊本・水俣ほっとはうすミツバチ上映会

胎児性水俣病患者や障がい者が仕事をしながら、
水俣病や障がいについて「 伝える」ことを目的に作られた
施設「ほっとはうす」にて。

 

今回のみつばち上映会を運んでくれたのは
Le jouhouの琢也シェフと
ほっとはうす施設長のタケ子さん。


みつばちの上映も、ダンスとリズムの時間も
どこまで皆さんと感じられるのか、緊張したけど

施設長のタケ子さんは
「手も足も動かなくても、
動く人たちよりずっと、感じる力があるの」
と教えてくれた通り、
じっと、最後まで映画を観てくれた。

みつばちダンサーのダンスと太鼓の音は
患者さんたちの喜びのパワーとなって
患者さんの普段あがらない手を、それも、両手を、押し上げた。
喜びと楽しさの表れだった。

 

施設長タケ子さんが、
何度も「K子さんの手があがったのよ!」と言ってた。

喜んでもらえたことが、嬉しかった。けど
どこまでいっても、やっぱり切ない気持ちは拭いきれず
これっぽっちしか、力になれてないことを申し訳なく思ってしまった。

 

上映前に寄った「水俣病展」で見た
痛みに耐えてひっかいてボロボロになった壁の後や
狂い踊るような患者さんの映像、

ひとり部屋に帰っていく患者さんたちの背中に、
どれだけの苦しみと痛みと孤独感だったのか、、想像を絶する。

 

踊り狂い死んだ猫たちや
患者さんの狂躁状態の映像は
みつばちが踊り狂い死ぬ姿と重なった。

 

どちらも、神経を破壊されている。
そして、小さないきものから、死んでいる。

水俣病は、突然に身体を襲ってくるのだそうだ。
今はまだ歩ける患者さんたちも、いつ、酷くなるかわからない。

なんの力にもなれず、申し訳ないとおもっている自分にも
情けない気持ちで、どう言葉にしたらいいのかわからずにいた。

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この夜、自由参加で琢也さんの再訪、歓迎会を開いてくれた。
普段参加しないという患者さんまでもが集まってくれた。

そこに参加してくれたNさんの6年前の忘れもしない姿は
琢也さんが一緒に過ごした夜のひどい狂躁状態の時だったと聞いている。

その頃は夜が明けると、まだ話もできたそうだけれど、
今は、歩くことも、普通に話すこともできない。
そんな身体で、お祝いのケーキを買ってきてくれた。

どうやって買ってきてくれたのか、
それを想像すると、今でも胸がいっぱいだ。

私たちは、くだらないことで喧嘩するし
自分の立場を主張し合う。
なんて、ちっぽけなんだろう。

赦し、支えあい、生きる。
水俣病と闘ってきた皆さんの強さに、尊敬しかない。

 

小さな町なのだから、当たり前なのかもしれないけど
店の奥の席にはJNC(元チッソ株式会社)らしき人たちがいたし、

最後に連れて行ってもらった
水俣生まれのマスターが営むバーカウンターでは
昔、患者さんの支援をしていた人の話しになったのだが

マスターはその話しの流れの中で、
「JNC(元チッソ株式会社)は悪いことしたよ。
でも、今は、いいことだってしてるよ。」と言った。

カウンターに一緒にいた水俣病患者のKちゃんは
「うん、うん、わかるよ」って言ってた。

Kちゃんは、怒らなかった。
こんな目にあっているのに、
いつ、狂躁状態が襲ってくるかも、わからないのに。
どんだけの赦しなんだろうか。

究極の赦しに、悔しくて、悲しくて。苦しかった。
水俣に生きるとは、こういうことが日常だ。

家族の死も、狂躁の日々も、ひどい差別も、
全部受け入れて、
水俣の人たちは「もやい直し」を掲げ、
あたらしい未来をつくろうとしている。

 

 

 

でも、まだ、まだ苦悩も苦闘も続いていた。

水俣病は、教科書に出ていた過去の公害事件と思っていたし
子供の私にとってそのページは、とても怖くて避けていた。

今まで、やっぱり、患者さんの姿が怖くて目を背けていた。

過去のことだと思ってたけれど
水俣病は
何も、終わってなかった。

食べた魚で直接に水俣病を患った人たち、
Kちゃんのように、お母さんの食べた魚で、
水俣病を背負って生まれた人たち。
水俣病とわかるまで、
感染る奇病とされ、隔離されてきた人たち
原因がわかってからも
水俣病と認定されなかったり、
認定された人とされなかった人で分裂したり
ニセ患者と言われたり。差別はずっと続いた。

今、まだ、被害の全体像は不明なままで
急に訪れる身体の異変と、まだまだ残っている差別と
闘いながら生きている。

有害だとわかっても、ずっと流し続け
36年もの間に堆積したメチル水銀含むヘドロの厚さは
4mに達するところもあったそうだ。

思った以上の被害数に政府も企業も賠償を恐れて、
健康被害を受けているのに
水俣病と認められない人たちは15000人もいる。

訴訟を提起し長い闘いが続き、ようやく
健康被害の新たな申請数は、、なんと、60000人。

どうにもならない身体で生きる日々を
今も、過ごしている。

その闘いの歴史は、ここに書ききれないほどの量だ。

 

 

「いのちはのちのいのち
のちのちのいのちにかけられた過去からの願いによって生きている。

わたしのいのちは、わたしのいのちではない。
わたしのいのちだからと、勝手に扱っていいのではない。

水俣病患者たちは
毒を引き取り、自然界の苦しみを引き取り、
これからの命のために、生きている。
共生があるのなら
共に苦しみも感じて。

水俣病事件は、病気発生からではなく
食べる、という行為から始まった。
人間は、魚や豚や、植物、命あるものを食べて
命をつないでいる。
その環、食べてつながる命の環に対して起きた事件だということ。

そんな38億年という規模の話だ。
すでに政治的レベルを超えている。
38億年前に、政治なんてないのだから。」

漁師であり、水俣病患者である緒方正人さんより。
水俣展は、http://minamata2017.strikingly.com
12月10日まで。

 

ポスターは子どもの頃の半永さん。
琢也さんいわく、今も、すっごくいい顔して笑うんだそうだ。
水俣市立 水俣病資料館では半永さんの写真展開催中。
その目線に、心がじんわりしてきた。
ぜひ。一度。

http://www.minamata195651.jp

 

【水俣病の歴史概要】

1914.大正3年→ 硫安の製造開始。ヘドロが海に流れ出し漁業被害が始まる。
1923.大正12年→ この頃から、漁業組合が漁業補償を要求。
1932.昭和7年 水俣工場でアセトアルデヒドの製造が始まる。
メチル水銀が含まれた廃液をそのまま海へ放流し始めた。

4年後

1936.昭和11年 新潟でもアセトアルデヒド製造が始まる。
廃液を阿賀野川へ放流。

1939.昭和14年 第二次世界大戦

1940.昭和15年 イギリスでメチル水銀中毒の病像を確立

1941.昭和16年 塩化ビニールの製造を開始し、メチル水銀流出。

同年  母親のお腹の中で水俣病となり、生まれた子供が誕生する。

太平洋戦争開戦。

1942.昭和17年 4歳の水俣病患者が発生

1951.昭和26年 貝類、海藻類が減少。クロダイ・スズキなどが浮き、ボラが獲れなくなる。

1953.昭和28年 水俣湾周辺で魚が浮き、猫が跳ねたり回ったり狂い踊り、海鳥やカラスが舞い落ちた。

続々と、原因不明の奇病患者が増えていく。


1956.昭和31年
「死者や発狂者も。水俣に伝染性の奇病」と西日本新聞が報道。

8月。熊本県が熊本大学に原因究明を依頼。
11月。熊本大学が汚染源がチッソ水俣工場の廃水が最も疑われる。と結論。



その一年後。

1957.昭和32年
水俣湾の魚介類を猫に食べさせ実験し、10日後に毒性を実証。

でも、国は全ての魚介が有毒化してるわけじゃないと認めなかった。
漁民の半数が廃業。
漁業組合員700名が座り込み抗議。



1958.昭和33年 厚生省が発生源は水俣工場の廃水との見解を発表したがチッソ(新日窒)は否定。

どんどん増えていく奇病患者。


同年、熊本県が水俣湾内での漁獲を厳禁する。
廃水ルートを変更し、水俣川河口へ。


すると、今度は、河口付近から不知火海沿岸へ水俣病患者が発生。


1959.昭和34年
通産省が排水を中止するよう行政指導。


チッソは、有機水銀は否定しつつ効果のない浄化槽を設置し、再び、水俣湾へ排水。。。

研究は進み、原因がアセトアルデヒド酢酸工場から出る有機水銀と確認するが、
チッソ株式会社は認めず、熊本漁連によるデモや、漁民の抗議行動が頻繁になっていく。


一方、市長、市議会議長、商工会議所、農業、新日窒労組、地区労などの28団体が
『排水を停止したら市民全体の死活問題だ!!』
と知事に陳情する。

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漁民 対 水俣市民となっていく。

そして、、
36年後
1968.昭和43年。


やっと、チッソ水俣工場は当時のアセトアルデヒド製造設備を停止。

政府が水俣病を公害認定し、メチル水銀が原因と断定する。
以後、未だに闘いは続いている。

被害者数も、埋め立て材劣化によるメチル水銀流出のことや
これからの水銀採鉱、水銀添加製品や水銀使用の製造。


輸出入のことは、はっきりと決まってない。

水俣病も、水俣から始まった公害問題も、
まだ、終わっていない。