母親女王蜂ダンサーmahoより

あの時、わたしのお腹にいました子なんですけど、9ヶ月になりました。
本番も観に来てくれた息子も、今日も、来てくれてるのですけど

今も、「蜂ブンブンの曲」といって、エンディングのわたしの命を歌ってくれます。
すごく大好きな曲です。

一年前に書いたアンケートへの解答に私は、「ここで知ったことをそれで終わりにせず、持ち帰って咀嚼して自分の問題として発信してもらえるようにしたい。自分はそれを伝えるミュージカルの一部になるダンスをしたい」と書いていました。

けれども一年経って書いた本人が何を書いたか忘れていました。

それで、いただいていた資料、絵本を改めて読み返しました。

すると、アンケートに書いたことを忘れてしまっていた私なんですが、ひとつの変化に気づきました。それは、「だれもしらないみつばちのものがたり」がするすると頭の中に入ってくる、場面が浮かぶということです。これは初見のときに感じた自分の理解が足りないという意味での読みづらさを自分自身が克服しているということなのかなと思いました。

 

なぜそう感じることができるのかそれは少なくとも、本番までの日々、私がミツバチの身になって考えたり想像したり、思いをはせることが出来ていたからなのかなと思います。

あゆみさん瑞希ちゃんと出会ってこのミュージカルに関わる機会を頂きました。

そして皆さんと共有した時間の中で、

ミツバチについて考えていたのではなく、みつばちになって考えたり感じたりしていたのだと思います。

それまでの私はネニコチノイドとか、ミツバチがいなくなるとか、聞いたことのある情報を

分かっているつもり、知っているつもりで処理してきました。

けれど、リハーサルを重ねる中で、つもりが少しずつ少しずつ取れていって、分かっている、知っているではなくなっていって、本番には、「ねえ聞いて、ねえ感じて、ねえ考えてみて」とミツバチの目線で発信していたのだと思います。

踊ること、歌うことは、人間だけでなく、ミツバチも含めた様々な生き物が伝え合おうとする、共有し合おうとする、カラダを使ったコミュニケーション。だからこそ、ミツバチの身になることができたのだと思います。

そして一番大事だと思うのは、このミュージカルが何か声高に主張したり、何かを

否定するという要素がなくって、ただ、ミツバチの命の営みを発信しているという点です。

生きる喜び、幸せ、楽しさ、そしてそれを突然失う恐怖、

この作品に出会うと、「ミツバチが嬉しいと私も嬉しい。逆にミツバチが悲しいと私も悲しい。」と思うと思うんです。

「こんなに幸せなミツバチ一匹一匹の生活を人間が奪っているなんて。」と。

 

「ミツバチが悲しいと私も悲しい。」

この想像力が大事だと思います。これがないといくら「ネオニコチノイドが」と叫んでも相手に届かない。自分が知らない間に加担していた、加担しているかもしれない暴力に静かに、けれどしっかりと気づかせてくれる力がこの作品にはあると思います。ミツバチ一匹の犠牲のうえに成り立つ幸せなんてないと。
人間に生まれた私に出来ること。ミツバチのために、地球のために、まだまだ出来ることがあります。地球の歴史にこれ以上傷をつけないようにすること。

それは自分たちの、人間の歴史にこれ以上傷をつけないことと同義ではないかと思います。

関係ないとか、まだ大丈夫をやめるのに勇気がいるならば、その勇気は出すべきだといつも自分に言い聞かせています。

このミュージカルに出会えた私は、ミツバチの命の営みから、命のつながり、その尊さ、かけがえのなさを感じ、考えることができました。

恥ずかしながらアンケートに大業なことを書いておいて、それを忘れてしまう私ですが、

「ミツバチが嬉しいと私も嬉しい。」この感覚だけは忘れずにこれまで過ごしてこれたと思っています。そしてこの感覚をカラダの一部に、血や骨、肉に染み込んでいく暮らしをこれからも目指していきます。

最後にこんなにありがたい機会をくださった歩実さん瑞希ちゃん、作品で出会った方々に感謝申し上げます。

そして養蜂家の皆さん、ミツバチからの命をかけたメッセージを私たちに教えてくださり

本当にありがとうございました。